転校生

転校生
吾平小学校

松野町夫(翻訳家)

転校生として私が入学した小学校は高台の上にあった。町の大通りを少し奥に入るとお宮があり、左手に学校へ登る石段の坂道(幅:約5 m)があった。坂道は「鎮守の森」のなかを登る。坂道の両端には桜などの広葉樹が生い茂る。石の階段を数段登ると、少し傾斜した踊り場に出る。また数段登ると踊り場、これを数回くりかえすと、小学校の正門(東門)にようやくたどり着ける。学校は敷地の南東端が断崖でここから町の中心街が一望できた。

1956年(昭和31年)の春、鹿児島県内之浦町の宮原分校から吾平町(あいらちょう)の吾平小学校へ入学するため、私は父に連れられてこの石段を登った。3つ年下の妹の清子もいたはずだが、妹のことはなぜか記憶があやふやであまりよく覚えていない。当時、私は小学4年生。清子はピカピカの一年生。周りに大勢の子供たちがいて、石段を元気に登っていたのは覚えている。満開の桜がちょうど散り始め、ときどき頬に触れて落下する。何だか別世界を歩いているような不思議な気がした。

吾平小学校は当時、18学級で全校生徒数約900名(現在は12学級で約300名)。各学年は、い組、ろ組、は組の3学級。私は小学4年生のい組、生徒数は54名、担任は岡本先生だった。内之浦の宮原分校は2クラスで全校生徒数31名だったが、これに比べると吾平小学校ははるかに大きい。校庭もずっと広く教育水準もかなり高い。内之浦は漁業の町だったが、吾平は農業の町。ことばや文化的な違いもある。実際、ことばが少し変だと同級生たちにからかわれたこともあった。こうしたギャップのため誤解されることも多く、なかなか友達もできない。当初、仲間はずれにされたような淋しさを感じていた。たいていの転校生がそうであるように。

転校してまもない昼食時間のこと。私はひとり校庭の片隅でブランコに乗り、同級生や上級生、下級生たちが土のグランドで遊んでいるのを遠くから眺めていた。当時、男の子は缶蹴りや相撲、女の子は縄跳びや石蹴りをしてよく遊んでいた。ドッジボール (dodge ball) は男の子にも女の子にも人気があった。

「松野さん!」と背後から女の子の声がした。ふりかえると、色の白いおしゃれな女の子が微笑んでいる。美少女に急に話しかけられ、私はすっかりうろたえてしまい、そのとき何を話したのか、今でもまったく思い出せないが、お互いに横に並んでブランコに乗りながら、しばらく会話した。彼女は同じクラス(い組)のK子さんだった。

このささいな出来事がその後、おかしな展開を見せた。その日の放課後、私は同級生数人から「お前、女の子と話していただろう」と揶揄される羽目になる。最初、なぜ非難されるのかよくわからなかったが、そのうちに暗黙の決まりごとが少しずつわかってきた。男の子は女の子と人前で楽しく会話してはいけない、ということらしい。K子さんもいじめられた。K子さんはクラスの女の子たちの中でもとびぬけて垢抜けしていた。ひょっとしたら少し薄化粧しているのでは…と疑いたくなるほどに。いずれにせよ、おしゃれな子だったことはまちがいない。こんな子はワルガキたちにとって非常に気になる存在。彼女への強い関心が伝統的な道徳観により抑圧され、屈折して「いじめ」という形で表出したのだと思う。今から思うと、彼女も同じ転校生だったのかも知れない。これから2年後の小学6年の途中、彼女は家の都合により再びよそへ転校してしまった。

貝原益軒は「七歳、是より男女、席を同じくしてならび坐せず、食を共にせず」と言ったらしいが、こうした伝統的な道徳観が男女共学の小学校においてさえも、当時はまだ残っていたのである。男女間のことに限らず、これ以外でも、たとえば、男の子は服装・ことば・行動が荒っぽいことが美徳とされていたと思う。ハイカラは女々しいもの、男はバンカラでなくてはならねという気風がまだ残っていた。当時は、音楽の時間にわざと音程をはずしたり、運動会のフォークダンスなど、わざと無骨に踊る男の子もいた。公衆の面前でいちゃつく若いカップルをよく目にしたり、ビジュアル系のイケメンがカッコいいとされたりする現代と当時を比較すると、まさに隔世の感がある。

担任の岡本先生は、標準語のアクセントやイントネーション、作文などを指導された(これ以外の科目も教えられたはずだが、あまり記憶にない)。ある日の国語の時間に、詩について説明された後で、各自、思ったことを詩に仕上げて提出せよとの指示。皆、ぶつぶつ文句をいいながらも書き始め、しばらくしてクラスのほぼ全員が提出した。私もこのとき初めて詩というものを書いてみた。その翌日の国語の時間に、岡本先生は私の詩と前田君の「子豚」の詩を採り上げ、よくできた作品なので黒板に書くように、とおっしゃった。私は得意満面となって自分の詩を黒板に書き写した。



青空に
白い雲がぽつかりと
浮かんでいる

山になったり
牛になったり
アヒルになったり

雲はまるで忍術使いだ
ぼくも雲になりたいな

「忍術使い」とは時代を感じさせる。現代っ子なら「忍者」と表現するだろう。でも、当時、「剣術使い」、「手品つかい」などは普通の表現だった。「魔法使い」は今でも使いますね。

先生: それでは、この詩について感想のある人は手を挙げてください。はい、A君!
A君: 「ぽつかりと」は「ぽっかりと」の方がいいと思います。
先生: うん、そうか。でも、これは詩だから「ぽつかりと」もありうるな。
B君: 誤字が多すぎます。「雲」の横棒が一本抜けているし、「空」も「使い」もちょっと変です。
数人: そうだ、そうだ。漢字がおかしい!
先生: 皆さん、粗探し(あらさがし)はやめて、もっと詩そのものを鑑賞するように。

当時、習字を習っている子は多い。そんな子にしたら、私の自己流の漢字は少し異様な感じがしたのかもしれない。前の学校の宮原分校では、一年生や二年生にひらがなや足し算を教えたりしていたが、自分自身の三年生の授業はほとんど受けたことがなかった。何しろ、分校の三学期は、ほとんどすべての時間が学芸会の劇の練習に費やされたほどである。だから漢字は読むことはできたが書くのは苦手だった。

前田君の「子豚」の詩は、うちに子豚が生まれた/三匹だ/…というような内容だったが、こちらの方は全文は覚えていない。彼は私の遠い親戚にあたる。ほめられて悪い気はしない。たとえ、ほめた先生がとうに忘れ去った後でも、ほめられた生徒にとって、その褒め言葉は永遠に心に残る。この「雲」の詩も50年ほど昔のことなのに今でも鮮明に思い出す。

今から思うと、このとき岡本先生は孤独な転校生を早くクラスの仲間たちに溶け込ませようという配慮もあって、私の詩を選択されたのであろう。おかげでその後、孤独だった転校生もほどなく皆と一緒に相撲をとったりドッジボールしたりして元気に遊ぶようになり、校庭の片隅のブランコとは次第に縁遠くなっていった。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

吾平小卒業生
2009年09月25日 17:12
先輩が吾平小に転校された年に生まれた東京在住の後輩です。吾平を離れて30余年。偶然当ブログを拝見しノスタルジーを感じました。
タウンズマン
2009年09月25日 19:42
ああ、そうでしたか。吾平小卒業生で、現在、東京にお住まいですか。私は吾平村が吾平町になった日に生まれたので、「町夫」(= townsman)。同じ日に生まれた女の子に「町子」さんがいました。

この記事へのトラックバック